鬼慶良間のお話



参照・国立沖縄青年の家『とかしき民話』から
鬼慶良間(ウニギラマ)と阿波連弁慶(アハレンビンチー)のお話です。
昔 昔 とてつもない力持ちの人が 渡嘉敷島の外から やってきたそうです。
あまりに力持ちなので 鬼慶良間(ウニゲラマ)と呼ばれました。
しかし優しくて 島人のことを 良く考えてくれたそうです。
昔は 餓死する人もいました。
すると 西山の一帯に蘇鉄を 植えさせたそうです。
『飢餓ではない間 毎年その実を取って 分けて食べなさい。だけど、そんなときでも幼木を取ったり、全部一度に取ったりしたらいかんよ』と教えたそうです。
渡嘉敷島の地元、阿波連には、やはり阿波連弁慶という 力持ちがいました。
互いに勢力争いをしたそうです。
渡嘉敷から阿波連へ行く途中に、小さな川が流れていて 着物を濡らしてしまうので 鬼慶良間が木の橋を架けたそうです。 
すると 阿波連弁慶が 踏んで折ってしまいました。
次に鬼慶良間は 1つの石を肩に担ぎ、1つを脇に挟んで持ってきて 石の橋を架けたそうです。
また 阿波連弁慶が来て 踏みましたが 折れないので 『お前に 負けた』と言ったそうです。
さて、阿波連弁慶は『ひとつ相撲をとってみよう』と言ったそうです。
阿波連弁慶は ヒランシーという海岸に立って 竹をしごいて 帯にして巻きました。
鬼慶良間は何もつけません。
『なぜ何の帯もつけないのか?』というと『『この勝負はやってみたらわかるよ』と言いました。
2人はずっと見合っていたそうです。
岩の上には、ちょうど人間が 立っていたように ひっこんだ所が 2つ残ったそうです。
現在 岩は取られて なくなってしまったそうです。
さて、鬼慶良間には 子供がいませんでした。
自分が住んでいた門中の人を 集めて『墓を造ってあげよう』と 石運びを始めたそうです。
上が屋根の形をした 破風型を造ったそうです。
普通お墓は ひと組ですが そのお墓は 入り口も中も ふた組になっていて、中でお膳のやりとりが出来るようになっていたそうです。
鬼慶良間は、大きく長い石を 八つ持ってきたそうです。
その八つ目の石を運んでいる途中で 亡くなったそうです。
死ぬ直前に 『私はこの病から逃げることはできない。 私が死んだら あんた方でこの墓石を持ち上げてなさい。 この墓石をあげられない時は、鬼慶良間リヤーヌエイと掛け声をかければ上がるはずたよ』と言って亡くなったそうです。
皆でリヤーヌエイと掛け声をかけると、石がきれいに持ち上ったそうです。
鬼慶良間は元気な時『このお墓を造っても、私を入れないでくれ。別のところに入れてくれ』と言ったそうです。
何故 自分で造ったお墓に入らなかったかというと、よそから来た人だし
自分の故郷に帰ろうと思っていたからだそうです。
それでも鬼慶良間は 村のターチ墓の横 別にお墓が造られ祀られたそうです。
やがて、お墓の前に お宮が建ち祀り 渡嘉敷の世主加那志(ゆーぬしがなし)と敬られています。
さてさて、日本の童話では 鬼がつくと悪者、弁慶がつくと 豪傑な守り主ですが、渡嘉敷島の鬼慶良間だけは ちょっと違うイメージで観て下さいね^^。

「鬼慶良間のお話」への4件のフィードバック

  1. 鬼慶良間はりっぱな施政者だったのですね。結局阿波連弁慶と相撲はとったんでしょうか?

  2. えみさん
    この民話資料は国立沖縄青年の家にあるのですが、肝心の結果は書かれていません(改ざんされたのは別ですが)。裸では掴むところがありませんし(^w^)
    以前渡嘉敷島に嫁いだばかりの頃、渡嘉敷と阿波連の言葉が通じなかったり、小さな競争心があるのを感じたものです。
    主人が他界して、陸上競技大会が中止になりました。あの頃、スパイクを履き主人は8種目に出ていたんです。賞状9枚(個人総合も)記録を保持していました。競う事の空虚さをあの当時 島が力抜けした気がします。
    島は二分しているようでもあり、大変親しい友人も多くいました。
    私は遠目に?と思いましたが、中学のPTAや主人の同級生・母の繋がりや声を掛けて受け入れて下さったり。
    だから渡嘉敷島が大好き…そう、好きなのは人でもあります。
    童話でも書きましょうかね。 エミさん、書く?

  3. かなさ~ん。童話でも民話でもいい、貴女の世界を広げて下さい。
    詩や写真、可愛いかなさんなのに、豪快なかなさんがいたり、強烈なスパイスがきたり、ファンの一人としていつも楽しみに見ています。

  4. 田場さん
    ありがとうございます
    m(_ _)mありがたくてもったいなくて励みになります。ありがとうございます。

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