渡嘉敷島慰霊祭



3月28日 午後1時半
渡嘉敷島の慰霊祭でした。
遺族代表 米田 英明さんの追悼のことばを 下記に承りました。
「本日ここに座間味昌茂村長をはじめ来賓の…略
昭和20年の終戦から69年の歳月が流れ、我が村、そして私達が決して忘れることのできない3月28日の本日、村住民の集団自決の日を迎えました。
悲惨な戦争に終わりを告げ、我が国に平和が蘇った終戦の日を迎えるたびに 国の行く末を思い、故郷や家族を案じつつ戦場に散ったご英霊や「生きて捕虜となり辱しめを受けるより 死して国に殉ずることが国民としての本分である」として 集団自決を強いられて亡くなった一般住民の方々、またスパイ容疑などで日本軍に殺害された方の無念に思いを馳せ、遺族の深い悲しみに満ちた往時を偲ぶとき、誠に痛恨の極みでございます。
わたくしの母親の米田光子は、1人の兄が糸満の摩文仁で学徒隊として戦死、父や防衛隊の兄2人も北山の集団自決で亡くし、4人の肉親を失いました。
戦後69年の現在、ご遺族の皆様の高齢化や戦争を体験された方々が他界されたこともあり、遺族の皆様も戦争を直接体験したことがない戦後生まれの私達の世代に変わろとしています。このような経緯で遺族を代表して追悼のことばを述べさせていただくことになりました。
顧みれば戦没者遺族は一家の中心的存在であった肉親を失い、戦中戦後の混乱する社会、焦土と化した村の下で物心両面に渡り筆舌に尽くしがたい苦境に立たされましたが、みんなで心を一つにして立ち上がり、お互いを思いやり、貧しいながらも支えあい、復興に向けて懸命の努力を重ね今日まで歩んで参りました。
その道のりは決して平坦なものではありませんが、戦没者遺族が生活を再建し、正しい道を歩み平和国家の増進に寄与することができたのも、国及び県、村におかれて、戦没者と遺族に対する弔意と深いご理解、ご支援があったからと思います。
戦後、日本は戦争への深い反省のもとに世界に誇れる平和国家として歩みつづけ経済的発展を成し遂げました。
我が村も以前はカツオ節生産で潤い、今では観光産業が盛んになり、県内外から多くの観光客や研修生などが訪れ、島の自然を満喫するとともに島の文化と歴史を学び平和学習なども行っています。
島の戦争の悲劇を後世に継承していこうと、このたび、村予算で集団自決跡地、旧日本軍赤松隊壕などの戦争遺跡が環境整備され、安心して現地見学もできるようになり、また、慶良間諸島が国立公園に指定されたことで、多くの観光客への島をアピールできます。
国立公園記念碑除幕式で石原環境大臣は挨拶の中で「この宝の海、素晴らしい自然を環境教育や平和教育の場に活用してほしい」と期待しています。
これも偏に、国難に殉じ、渡嘉敷村の再建への磯となられたご英霊の平和への切なる願いと精神が黙々と流れ受け継がれているからであり、その尊い遺徳を私達は決して忘れるものではありません。
我が国で唯一、住民を巻き込んだ地上戦であったゆえに起きた沖縄戦の悲惨さや、我が島で起きた「軍が住民は北山に集まれ」と、軍から配られた手榴弾で一般住民が集団自決を強いられ、赤ちゃんからお年寄りまで329人が亡くなった悲劇の真相を、生き残った多くの方々が証言されています。
この歴史的事実を戦後生まれの私達が正しく後世に伝え、二度と戦争を起こさない犠牲者に悲戦の誓いの祈りを捧げ、平和への願いを新たにし、命の尊さ、平和の大切さを発信していくことがわれわれ遺族に課された使命だと思っております。
本日の慰霊祭に望み、悲しみの歴史を繰り返さないと決意を新たにし、戦争の史実と教訓を風化させることなく子子孫孫にわたり正しく継承し、平和で希望に満ちた社会の推進に一層努力を重ねますことをお誓いいたします。
以下 略。

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